2017年7月13日木曜日

雑感7/13-教育について

大学では、教育、特に他学部向けの教養教育は評価されない。私達は数年毎に業績発表と評価を受けるのだが、そこでは研究成果を発表する。教育には相当の準備や工夫が必要だが、それを成果として発表する事は無い。一つには、ここが研究に力を入れている大学だからだろう。また、研究成果はpeer reviewにより研究の質を一応測る訳だが、教育については、学生のアンケート以外に定量化する指標は無い。学生は授業内容の専門家ではないので、教員の熱意は分かるが、授業内容の良悪は分からないだろう。また研究成果は、主に研究者とその環境という分かり易い要因で決まるが、教育成果は経験上、受ける学生の素質や興味に大きく左右されると思う。

そんな訳で教養教育を進んで引き受ける大学人は少ない。実際、担当授業数は各学部に割り当てられ、各学部組織に変化があっても、担当数を変える事は事実上不可能だ。自分の学生を他学部に教育させる仕組み、が現在でも残っているが、この既得権益を手放そうとはしない。自分達の担当授業数は少ないのにだ。他人に教育させて、自分は研究した方が評価される、のがこの大学の仕組みである。教養教育を統括する組織はただの事務組織となり、権限は殆どない。

教科書を書くことはどうだろう? 図書館では良く似た教科書が多数あるせいで私は食傷気味だ。授業では何を教えないかも大事だが、薄すぎる本は経済的に成り立たないだろう。既にある名著の「まとめサイト」でしかないかもしれない。
研究費をいくら獲得したかも重要視される。これはまず発表論文数によるので、人的資本つまり研究室の規模が大きく左右する。実験研究室で負の連鎖に陥ると、脱出が難しい事が想像できる。理論ではまだましだが。別のやり方としては、研究仲間を増やし、発表論文でお互いを著者に入れる、という互助会を作る事が考えられる。これは妥当な場合から倫理上問題な場合まで、色々ある。悪い事に、業績水増し互助会を発表論文から見破るのは簡単ではない。内容に比べて著者数の多い論文を見ると、これを連想する。

大学の運営には大事な雑務が色々ある。不要な事はやらなくて良いが、きっちりやるべき事を他人任せにするのはどうかと思う。

自分は何を残す事になるのか。
そんな事を考える余裕はあるのか。

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